埼玉県行田市 足袋
- 2015/11/13
- 15:39
群馬県邑楽郡大泉町の安野由美ピアノ教室です (*^_^*)
着付け教室も併設致しております
埼玉県行田市の「足袋とくらしの博物館」
こちらは 牧野本店という 明治7年に 武士から足袋商人に転身した
牧野鉄弥太氏によって始められた足袋屋さんの足袋工場です
残念ながら工場は平成17年に閉鎖されています
1階は足袋作り 2階では行田の足袋の歴史が写真で展示されています

足袋作りは13工程あります

サイズに合った金型で布地を裁断


底も同じように裁断 23.5cmは八文(はちもん)
昔は一文銭を並べて足のサイズを測りました


通し
甲馳(コハゼ)をかける糸を縫い付けます

押さえ
糸が取れないように糸を縫い押さえます

甲馳付け
甲馳の一番上にはメーカーの刻印が入ったもの
「これが入ってるのはいいもんなんだよ」


羽縫い 甲縫い 尻止め と縫っていきます
尻止めとは内甲と外甲をかかと部分で丸く縫い止める作業です

爪縫い
足袋底と内甲 外甲をギャザーを寄せながら縫い合わせます

廻し
足袋底と内甲外甲をグルッと縫い合わせます
千鳥
廻しで縫い合わせたところに千鳥がけします

仕上げです
表に返して縫い目を叩いて馴染ませます



足袋ができました
2階は行田市の足袋の歴史がわかる展示室です

最初の工程 ひきのし
布地を裁断しやすいよう10枚程重ねて整えます


裁ち台 裁ち包丁 型紙

ミシンは明治にアメリカから輸入されたシンガーミシン
先程の足袋作りでも現役で動いています

アイロン


行田の足袋の始まりは明らかになっていませんが
明和2年(1765)出版の「東海 木曽 両道中懐宝図鑑」という道中案内本に
「忍のさし足袋名産なり」と記されていることから
約300年の歴史があると考えられています
行田では江戸時代初頭の慶長年間にはすでに綿の栽培が行われていました
羽生や加須でも綿織物が発達し 綿布を藍染した「青縞」が特産でした
加えて中仙道の熊谷宿 日光街道の行田町など 足袋の消費地が近隣にあったことで
行田の足袋は発展していきました
江戸時代末の天保年間には 行田の足袋屋は27件と店舗の中では一番多く存在し
明治維新後の廃藩置県で武士が足袋商人に転身する者でますます増えました
足袋の産地として本州で最も北にあった行田は北海道の開拓が始まると
東北 北海道に広げて成功し 明治になるとミシンの導入で生産量が増加しました
明治10年 西南戦争で軍事用足袋の受注
明治27-28(1894-1895) 日清戦争では軍艦内で履く刺し足袋(艦上足袋)40万足の受注
明治37-38(1904-1905) 日露戦争ではわらじ掛け足袋の受注
市内で見かける大きな蔵



これらは足袋蔵です
足袋は冬場から春先にかけての出荷が多い季節産業
しかしながら一年中通して生産しないと追いつかないため 倉庫にストックするようになりました
江戸〜昭和30年代にかけて土蔵作りの足袋蔵が建てられました
大正12年(1923) 関東大震災で東京の足袋産業は壊滅
行田の足袋は東京進出を果たし生産量が大きく増え
昭和13年(1938)には全国シェアの80%を生産する日本一の足袋の町となりました
昭和12年(1937)蘆溝橋事件勃発 日中戦争が始まり
行田は軍事被服の縫製が命じられ軍需生産一色に染まっていきました
昭和29年 ナイロン靴下が発明され服装の洋装化と相まって
足袋の需要は急速に落ち込んでいきましたが
現在でも約35%を生産する日本一の足袋産地に変わりありません
着付け教室も併設致しております
埼玉県行田市の「足袋とくらしの博物館」
こちらは 牧野本店という 明治7年に 武士から足袋商人に転身した
牧野鉄弥太氏によって始められた足袋屋さんの足袋工場です
残念ながら工場は平成17年に閉鎖されています
1階は足袋作り 2階では行田の足袋の歴史が写真で展示されています

足袋作りは13工程あります

サイズに合った金型で布地を裁断


底も同じように裁断 23.5cmは八文(はちもん)
昔は一文銭を並べて足のサイズを測りました


通し
甲馳(コハゼ)をかける糸を縫い付けます

押さえ
糸が取れないように糸を縫い押さえます

甲馳付け
甲馳の一番上にはメーカーの刻印が入ったもの
「これが入ってるのはいいもんなんだよ」


羽縫い 甲縫い 尻止め と縫っていきます
尻止めとは内甲と外甲をかかと部分で丸く縫い止める作業です

爪縫い
足袋底と内甲 外甲をギャザーを寄せながら縫い合わせます

廻し
足袋底と内甲外甲をグルッと縫い合わせます
千鳥
廻しで縫い合わせたところに千鳥がけします

仕上げです
表に返して縫い目を叩いて馴染ませます



足袋ができました
2階は行田市の足袋の歴史がわかる展示室です

最初の工程 ひきのし
布地を裁断しやすいよう10枚程重ねて整えます


裁ち台 裁ち包丁 型紙

ミシンは明治にアメリカから輸入されたシンガーミシン
先程の足袋作りでも現役で動いています

アイロン


行田の足袋の始まりは明らかになっていませんが
明和2年(1765)出版の「東海 木曽 両道中懐宝図鑑」という道中案内本に
「忍のさし足袋名産なり」と記されていることから
約300年の歴史があると考えられています
行田では江戸時代初頭の慶長年間にはすでに綿の栽培が行われていました
羽生や加須でも綿織物が発達し 綿布を藍染した「青縞」が特産でした
加えて中仙道の熊谷宿 日光街道の行田町など 足袋の消費地が近隣にあったことで
行田の足袋は発展していきました
江戸時代末の天保年間には 行田の足袋屋は27件と店舗の中では一番多く存在し
明治維新後の廃藩置県で武士が足袋商人に転身する者でますます増えました
足袋の産地として本州で最も北にあった行田は北海道の開拓が始まると
東北 北海道に広げて成功し 明治になるとミシンの導入で生産量が増加しました
明治10年 西南戦争で軍事用足袋の受注
明治27-28(1894-1895) 日清戦争では軍艦内で履く刺し足袋(艦上足袋)40万足の受注
明治37-38(1904-1905) 日露戦争ではわらじ掛け足袋の受注
市内で見かける大きな蔵



これらは足袋蔵です
足袋は冬場から春先にかけての出荷が多い季節産業
しかしながら一年中通して生産しないと追いつかないため 倉庫にストックするようになりました
江戸〜昭和30年代にかけて土蔵作りの足袋蔵が建てられました
大正12年(1923) 関東大震災で東京の足袋産業は壊滅
行田の足袋は東京進出を果たし生産量が大きく増え
昭和13年(1938)には全国シェアの80%を生産する日本一の足袋の町となりました
昭和12年(1937)蘆溝橋事件勃発 日中戦争が始まり
行田は軍事被服の縫製が命じられ軍需生産一色に染まっていきました
昭和29年 ナイロン靴下が発明され服装の洋装化と相まって
足袋の需要は急速に落ち込んでいきましたが
現在でも約35%を生産する日本一の足袋産地に変わりありません
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