江戸の男子のファッション事情 高崎市にて
- 2016/11/10
- 15:55
群馬県邑楽郡大泉町の安野由美ピアノ教室です (*^_^*)
アロマテラピーサロンや着付け教室を併設致しております
高崎市染料植物園
駐車場から建物まで 植物園の様々な木々を眺めながら歩き進みます

大きなホオノキの葉が落ちていました
ホオノキの樹皮や緑葉は 染料にして
様々な媒染剤で 萱色 薄茶色 茶鼠色などに
染めることができます

植物園を通り抜けると

江戸時代の服飾文化から 武家や町方の男性たちに焦点をあて
染織品を中心に装いを紹介する企画展
近世では 小袖が衣生活の中心となり
奢侈禁止令が出されるも
友禅染 小紋染 木綿の普及 舶来染織品に刺激を受ける等、
新しい流行が生み出されました
寛文6年(1666)には 「紺屋茶染口伝書」が出版されます
それまで秘伝とされてきた染色技法が
出版を通して公開されるようにもなったのです
武家や庶民の間に 季節感を表す「衣替え」の習慣が取り入れられるようになります
衣替えは 平安時代の宮中行事として始まったものです
平安時代は 旧暦4月1日 (現在の5月7日)と 10月1日(現在の 10月31日)
室町時代は 1年を4期に分けて行うようになり
江戸時代は ⚫︎旧暦4月1日(現在の 5月7日)から 袷
⚫︎ 5月5日(現在の6月9日)から 裏のない麻織物の帷子、絽・木綿の単衣
⚫︎ 9月1日(現在の10月1日)から 袷
⚫︎ 9月9日(現在の10月9日)から 袷の表地と裏地の間に薄綿を入れた「綿入れ」というように
節句を区切りに行われていました
…という事は 現在の5月6日まで 綿入れ だったのかしら…
ずいぶん温暖化したものです…
江戸時代の婚礼は 小笠原流に則った儀式が多く行われました
花嫁を待つ婿方は 門前に門火を焚き
美しく装飾された350個の蛤が入った貝桶を手渡す「貝桶渡し」が行われます
蛤には夫婦和合 二夫に見えず の意味がありました
色直しでは 花嫁は白装束から色物(花婿から贈られる赤地の衣服)へ
花婿は(花嫁から贈られる)直垂 大紋 長裃を 裃に改めました
縫腋の袍(ほうえきのほう)
束帯や衣冠(束帯を簡略化したもの)の表衣
夏は穀織(こめおり)の単
冬は表が固地綾や平織、裏地が平織の 袷
地紋の使用は 5位以上が許され
色目は10世紀末頃になると濃い色が尊ばれるようになり
従来 三位以上が許されていた深紫・中紫と
四位が許されていた深緋は 黒へと変わりました
直垂(ひたたれ)
今でも相撲の行司装束に見られます

長絹(ちょうけん)
公家や武家の童子の元服前の礼服に多く用いられました
一方 能装束のそれは 広袖 直垂形式の単の上着で
男性役は狩衣の代用
女性役は舞を舞う時に用います
素袍(すおう)
直垂 大紋に次ぐ礼服
直垂 大紋と構造は同じですが 材質と仕立てが違います(麻の単仕立て)
また 胸紐と菊綴(きくとじ)が革製で「革緒の直垂」とも呼ばれました
甲冑 陣羽織 それに伴う家紋 などの展示もありました

江戸の火災と火消し制度の解説と
火消しの 陣笠と陣笠の垂れ布(しころ)の展示がありました

雨具として着用された合羽
語源はポルトガル語のcapa(カパ)
江戸時代初期に用いられたものは 坊主合羽と呼ばれる袖無しの形態で
桐油を引いた紙や木綿製もあったようです
寛文(1661-1672)の頃になると袖付きが登場
短い半合羽に対し 長合羽は武家 医者 僧侶 裕福な町人が着用しました
袷の生地は 木綿・兎羅綿( とろめん 綿と兎の混紡)・羅紗(毛織物の一種)
単は 麻・葛 だったようです
現代にも残る「被布」
幅広の衿を折り返し 上前と下前を総緒でとめる形態
享和(1801-1804)の頃 茶人 俳人などが着用するようになり
文化・文政の頃に 江戸の町芸者が着始めてから一般の女性にも広がり
武家の後室や隠居なども着用するようになったということです
……………………………………………………………………………………………
高崎市に来たら パスタをいただきます
高崎市はパスタの街として知られています
13(日)はキングオブパスタ2016という催しもあるようです
こちらは「オステリア36」

ムール貝と長ネギのアーリオオーリオ
貝はタウリンが豊富で疲れをとってくれます
長ネギは体を温める作用があり
これからは食卓にのぼる機会が増えます

ドルチェはクリームブリュレと栗のソルベ

パリんと割って ❤️

炭火焼伊太利亜料理「レオーネ」
(夜のみ営業)

ポルチーニ茸のクリームパスタ
優しく気さくなシェフのおもてなしも素晴らしいです

♫ ♫ ♫
アロマテラピーサロンや着付け教室を併設致しております
高崎市染料植物園
駐車場から建物まで 植物園の様々な木々を眺めながら歩き進みます

大きなホオノキの葉が落ちていました
ホオノキの樹皮や緑葉は 染料にして
様々な媒染剤で 萱色 薄茶色 茶鼠色などに
染めることができます

植物園を通り抜けると

江戸時代の服飾文化から 武家や町方の男性たちに焦点をあて
染織品を中心に装いを紹介する企画展
近世では 小袖が衣生活の中心となり
奢侈禁止令が出されるも
友禅染 小紋染 木綿の普及 舶来染織品に刺激を受ける等、
新しい流行が生み出されました
寛文6年(1666)には 「紺屋茶染口伝書」が出版されます
それまで秘伝とされてきた染色技法が
出版を通して公開されるようにもなったのです
武家や庶民の間に 季節感を表す「衣替え」の習慣が取り入れられるようになります
衣替えは 平安時代の宮中行事として始まったものです
平安時代は 旧暦4月1日 (現在の5月7日)と 10月1日(現在の 10月31日)
室町時代は 1年を4期に分けて行うようになり
江戸時代は ⚫︎旧暦4月1日(現在の 5月7日)から 袷
⚫︎ 5月5日(現在の6月9日)から 裏のない麻織物の帷子、絽・木綿の単衣
⚫︎ 9月1日(現在の10月1日)から 袷
⚫︎ 9月9日(現在の10月9日)から 袷の表地と裏地の間に薄綿を入れた「綿入れ」というように
節句を区切りに行われていました
…という事は 現在の5月6日まで 綿入れ だったのかしら…
ずいぶん温暖化したものです…
江戸時代の婚礼は 小笠原流に則った儀式が多く行われました
花嫁を待つ婿方は 門前に門火を焚き
美しく装飾された350個の蛤が入った貝桶を手渡す「貝桶渡し」が行われます
蛤には夫婦和合 二夫に見えず の意味がありました
色直しでは 花嫁は白装束から色物(花婿から贈られる赤地の衣服)へ
花婿は(花嫁から贈られる)直垂 大紋 長裃を 裃に改めました
縫腋の袍(ほうえきのほう)
束帯や衣冠(束帯を簡略化したもの)の表衣
夏は穀織(こめおり)の単
冬は表が固地綾や平織、裏地が平織の 袷
地紋の使用は 5位以上が許され
色目は10世紀末頃になると濃い色が尊ばれるようになり
従来 三位以上が許されていた深紫・中紫と
四位が許されていた深緋は 黒へと変わりました
直垂(ひたたれ)
今でも相撲の行司装束に見られます

長絹(ちょうけん)
公家や武家の童子の元服前の礼服に多く用いられました
一方 能装束のそれは 広袖 直垂形式の単の上着で
男性役は狩衣の代用
女性役は舞を舞う時に用います
素袍(すおう)
直垂 大紋に次ぐ礼服
直垂 大紋と構造は同じですが 材質と仕立てが違います(麻の単仕立て)
また 胸紐と菊綴(きくとじ)が革製で「革緒の直垂」とも呼ばれました
甲冑 陣羽織 それに伴う家紋 などの展示もありました

江戸の火災と火消し制度の解説と
火消しの 陣笠と陣笠の垂れ布(しころ)の展示がありました

雨具として着用された合羽
語源はポルトガル語のcapa(カパ)
江戸時代初期に用いられたものは 坊主合羽と呼ばれる袖無しの形態で
桐油を引いた紙や木綿製もあったようです
寛文(1661-1672)の頃になると袖付きが登場
短い半合羽に対し 長合羽は武家 医者 僧侶 裕福な町人が着用しました
袷の生地は 木綿・兎羅綿( とろめん 綿と兎の混紡)・羅紗(毛織物の一種)
単は 麻・葛 だったようです
現代にも残る「被布」
幅広の衿を折り返し 上前と下前を総緒でとめる形態
享和(1801-1804)の頃 茶人 俳人などが着用するようになり
文化・文政の頃に 江戸の町芸者が着始めてから一般の女性にも広がり
武家の後室や隠居なども着用するようになったということです
……………………………………………………………………………………………
高崎市に来たら パスタをいただきます
高崎市はパスタの街として知られています
13(日)はキングオブパスタ2016という催しもあるようです
こちらは「オステリア36」

ムール貝と長ネギのアーリオオーリオ
貝はタウリンが豊富で疲れをとってくれます
長ネギは体を温める作用があり
これからは食卓にのぼる機会が増えます

ドルチェはクリームブリュレと栗のソルベ

パリんと割って ❤️

炭火焼伊太利亜料理「レオーネ」
(夜のみ営業)

ポルチーニ茸のクリームパスタ
優しく気さくなシェフのおもてなしも素晴らしいです

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